能登半島地震レポート〈2〉―能登営業所の社屋と機材の被害状況―

能登営業所内部と、地震直後に止まった時計

利水社では、地震発生直後から、各事業部長が中心となり従業員の安否確認が行われましたが、通信が安定しない状況の中、全員の安全が確認できたのは15日のことでした。

連絡が取れなかった能登営業所の最後の1人(能登町在住)に関しては、近くの小学校に避難していた別の社員が、徒歩で心当たりのある避難所まで赴き、無事を確認。

ともに働く仲間の消息を全て知ることができたのは、何より喜ばしいことでした。

 

再び社員の体験談をご紹介します。

Fさん(輪島市にて被災)

自宅は5軒ほどの民家が集まった山間の集落にありますが、地震で家の下に地割れが生じ、建物が傾いて住めない状態になってしまいました。外部に出る道も陥没のため車が通行できなくなり、集落の中央にあるお寺に住民みんなで避難して過ごしていました。知人が重機で道路の応急処置をしてくれ、車が通れるようになったのは112日のことです。

断水・停電が続いていましたが、川から水を汲め、薪ストーブ、五右衛門風呂、汲み取り式のトイレが利用でき、正月の食材と毎朝鶏が産んでくれる卵もあったので、意外と生活することはできました。ただ照明がろうそくやランタンしかなかったため、夜が非常に長く感じました。

雪深い地で春まで不自由することが予想されたので、その後は埼玉の親族の家に一時避難することになりました。

Mさん(輪島市にて被災)

正月の休みを利用して、輪島市の実家に帰省し、友人2人と南志見(白米千枚田の近く)までドライブをしていたときに地震に遭いました。道が土砂崩れで寸断され、進むことも戻ることもできなくなってしまい、当日は近くの避難所で過ごしました。

翌朝、避難所に連日寝泊まりするのは精神的に負担になると感じ、3人で実家まで徒歩で帰ることにしました。片道15㎞ほどの道のりでしたが、土砂が崩れているところは乗り越えたり、海岸に降りて迂回したりして進み、途中で行けるところまで車に乗せてくれた方にも助けられ、お昼には実家に辿り着くことができました。

自宅のある内灘町に戻れたのは112日、南志見に置いてきた車を取りに行くことができたのは、127日になってからのことです。

 
道路やライフラインの寸断により、1月中旬まで自宅周辺や避難先から出るに出られなかった従業員も多く、穴水町にある能登営業所の状況把握や片付けは、アクセス可能な従業員の手で少しずつ進められました。

幸いなことに、測量の要ともいえる機器に関しては、12日の時点で動作確認をし、異常がないことを把握。倉庫はシャッターが壊れていたものの、中に保管していたナローマルチビーム搭載用のラジコンボート「利水丸」も無傷なことがわかりました。

トータルステーション(測量機)

倉庫のシャッター

ラジコンボート「利水丸」

ガラスが飛び散った社屋の扉や窓には、シートで塞ぐなどの応急処置を施し、パソコンなどの機器類は金沢の本社に一時避難させることに。パソコンはディスプレイの破損はあったものの、本体は全て無事。サーバからも業務に必要なデータは全て取り出すことができました。

そして111日、復旧に向け大きな進展がありました。

建設会社に依頼し、能登営業所の社屋の現地調査を実施したところ、心配された建物の基礎部分に重大な損傷はなく、改修で元の機能を回復できるとの結果を得たのです。

社員が基礎部分を見回った時の様子

所々ひび割れは認められました

とはいえ、壁や天井は細かな損傷が多く、内装は全面的な改修が必要となります。

水道管や給湯設備に関しては何らかの異常が認められ、現在も調査中です。

水漏れが生じ、汚れた床(1月2日撮影)

これを受け、2024年夏の改修工事完了を目指し、その間は敷地内に仮の社屋を設置し、業務を行う方針が立てられました。

 

現在の能登営業所の社屋は1995年に建設されたものですが、実は改修は今回が初めてではありません。

前回の改修は17年前。2007年の能登半島地震(穴水町で最大震度6強を観測)により被災した際のことです。
 
奇しくも、2度の大地震による2度目の改修の運びとなりました。